卒業間際に皆に「ほのお」が配られた時、八塚君が早川先生についての文を書いたのは誰だろうと私に聞いてきたことを覚えています。多分清真人君が書いたんだろうと答えた。
先生方について書いた文には最後にイニシャルがあり、多分その担任のクラスの誰かが書いたんだろう、それもクラス委員や、ある程度目立つかスポーツなどで活躍していた生徒が依頼されたのではないかと思います。
確かに、イニシャルからはB組の宇賀神先生を書いたのは「滝しづ子」さんだろうし、渥美先生について書いたのは「山内洋隆(ひろたか)」君だろう。また、C組の青木先生については「野々村英一君」の文だろうとおおよその見当はつきます。わからないのはA組とF組でそのクラスにはそれらしき人がいないので八塚が書いた人がわからないと言っていた。確かに、A組男子には(T.H)なるイニシャルの生徒はいない。花房泰子は人気もあったしクラスでもめだっていたから彼女が「ぼく」という形で男性が書いたような文にしたのかな、なにか土佐日記の「おとこもすなる日記を女もしてみむとてすなり」とかあったのを思い起こすけどまさかそこまですることはないだろうから他のクラスの人なのかイニシャルがあてずっぽなのかこれはわかりません。F組の文は追って紹介するけれど、実はこれも誰が書いたかF組の人ではないのかも知れないとも思ってしまった。この「ほのお」は17号で、私は姉(15号と多分12号)も見ていたのだけど、表紙が蜘蛛の巣に木の葉ひっかかってるような印象的なものだったのを覚えてる。また、17号は黒地に字の部分が白抜きで「ほのお」というタイトル3 文字がかかれているけど、山野先生が白抜きにすると印刷代がかかるとかあまり好きでないとか(内容は不確か)なんか白抜きについてコメントしていたのを覚えている。
当時の教師と生徒の関係というのは今から考えると想像もできないくらい学校の先生に対して生徒や親からの信頼が熱かったと思う。先生が多少問題があるとしても、それは、かの早川先生が若気の至りでよく生徒をなぐったり、コンパスでアタマを殴ったりしたことや、数学のテストがあまりにも難しくて平均点がいつも低く、中間・期末テストでは50分のテスト時間では幾何の難しい補助線をひいたりする問題が解けなくて、毎回決まって後半に各クラスを早川先生が回ってきてニヤッと笑いながら「みんながまだあまり解けてけてないようなので時間を15分延長します」というとクラスからはこれで何とか最後まで証明をかける、といった安堵のため息と「時間延ばしたってわかんねえよ」の数学苦手グループの両方の思いがクラスをよぎった。問題はそのくらいで、生徒も先生も信頼があったし一生懸命であったことはどの先生にも共通していたと思う。一人の先生(大塚先生の理科)が5分間テストをすれば、井田先生もとりいれて英単語の5 分間テストを毎授業のはじめにする、という具合だった。
この当時の映画に「つづりかた兄弟」というのがあったけど、貧しい家の兄弟がつづり方、作文で入賞する、貧しさのために兄弟の一人が死ぬ、つづり方の文が入選する、兄弟の一人が死んだあと新聞社が取材に来てかげで「作文のうまい子供が何人もいるとこのうちには大金がはいるだろうなあ」というのを耳にして子供が「おじさん、僕達はお金がほしいとか有名になりたいから書くんじゃないんだ。ただ、弟が
死んで悲しかったから感じたこと、書きたいことがあるから書くんだ。」と訴えるのだけど、この映画では夜寝るときに布団の上で戦地にいっている父のいる南方に向かって土下座し、学校の先生の家の方向に向かってまた土下座し、それから床に就くというシーンがある。この時代の教師と子供との信頼関係というのはそれほど強く、「先生とお父さんのいる方向にに挨拶してから寝なさい」という母親も同じだったのだろうと思う。
この映画を2年前に「日本映画名作」のCSで見たとき、子供の頃学校で見た映画であることを映画の別のシーンを見て思い出し、そうか、この映画だったのか、と思った。
( 2006年12月22日 草部)
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